宋王朝小史

 ここでは中国の歴代王朝の中でも、フェニックスが最も好きな王朝である「宋」についてお話します。地味であまり人気はありませんが、ステキな国ですよ!


 日本にも遣唐使を通じ多大な影響を及ぼした中国の大国、唐が907年に節度使(軍閥)であった朱全忠に滅ぼされると、華北にはこの朱全忠が建国した後梁にはじまり、後唐、後晋、後漢、後周の5つの王朝が興亡を繰り返した。これら5つの王朝を総称してを「五代」と言い、さらに、同じ頃華南、華中にも10の地方政権が興亡を繰り返し、中国全土が戦乱の渦に巻き込まれる血なまぐさい時代(「五代十国」)が続いた。


 この戦乱の時代を終わらせたのが後周の武将だった趙匡胤(チョウキョウイン)である。彼はクーデターによって「宋」を建国、文治主義をとるため、節度使勢力の削減をはかり、中央政府の軍隊である「禁軍」を強化する軍制の改革を行った。しかし、このことは国境における防衛力の弱体化を招き、北方民族の侵入を許すことにつながった。宋は平和を維持するため、遼や西夏といった周辺諸国に歳幣を払わねばならなくなる。「宋は弱い」というイメージがあるのは、平和を金で買ってでも戦争を避けようとしたからである。統治面では、官僚の登用試験である「科挙」に、皇帝自ら質問をする最終試験「殿試」を取り入れ、皇帝に対する忠誠心を高める中央集権化をすすめた。

 このように文治主義と平和主義を特徴とする国づくりを進めた趙匡胤はその人柄にも惹かれるものがある。彼が後周をクーデターで倒した時、「後周の皇族たち(禍根を残さぬ為、通例なら皆殺しにされてもやむをえない)を厚く遇すること」、また、「士大夫(学者や官僚)が皇帝に言論をもって反抗したからといって、殺してはならない」という遺訓を作った。彼はこの二つの遺訓を石碑に刻み、後継者たちにもこの決まりを忠実に守った。

 宋は金と同盟して1125年、遼を滅ぼしますが、同盟の条件として金と交わした約束を度々破ったため、怒った金に帝都「開封」を占領され、当時皇帝であった欽宗(キンソウ)や、彼の父で前皇帝の徽宗(キソウ)といった皇族たちは北方へ連れ去られる。これが世に言う「靖康の変」である。


 欽宗の弟の高宗は江南へ脱出し、「臨安」を首都として宋を再興した。歴史では便宜上、靖康の変以前の宋を「北宋」と呼び、これ以降の宋を「南宋」と呼ぶ。南宋では金に対する反撃を主張する岳飛(ガクヒ)ら主戦派と、秦檜(シンカイ)を中心とする和平派が対立したが、結局和平派の主張により、南宋は金との国境を淮水(ワイスイ)に定め和睦。南宋は華北の広大な領土を失うこととなった。しかし、江南は気候も温暖で、華北よりも遥かに生産力の高い地域である。この江南に資源を集中投資することができたため、むしろ、北宋の時代よりも経済は発展した。豊かな経済力を誇った南宋ではあったが、最後は1279年にフビライ・ハン率いる元に滅ぼされる。もともと軍事的には弱体な宋だったが、宋王朝最後の戦いである海上決戦「厓山の戦い」(ガイザンノタタカイ)では善戦し、元軍も苦戦を強いられる。しかし、最後には元軍の爆破工作船による攻撃で総崩れとなり、最後の皇帝「衛王」以下軍人・官僚など10万人以上が入水し、ここに宋は滅亡する。


 宋の文化面に目を移すと、教科書的な記述になるが、唐の貴族的文化に対して、庶民的な文化を発達させ、社会面では「鎮・市」と呼ばれる地方商業都市が発達し、都市の治安も良く、夜通し人が絶えなかったといわれる。また、ある程度、農村部でも娯楽を楽しむだけの余裕が生まれた。経済面では、世界最初の紙幣である「交子」や「会子」を生み出すなど宋が中国史上果たした役割は計り知れない。宋代の3大発明(火薬・羅針盤・活版印刷術)は、後世の人類社会に大きな恵みをもたらしている。


 最後に、宋という国は漢、唐、元、明、清などと違い、派手な対外遠征もなく、領土も狭く、地味な王朝である。「宋は弱い」というイメージからか、我が国では、最も人気のない中国の王朝の一つといってよいであろう。しかし、北宋・南宋合わせて319年もの存続期間は、中国歴代王朝の中でも漢(約400年間)に次ぐものであり、いかにこの王朝の支配が、安定したものであったかがわかる。

 臣下にとっても、皇帝に反対しただけでは、殺されない自由な気風は働きやすかったに違いない。彼らは最後まで国家と皇帝に忠誠を誓った。最後の「厓山の戦い」における殉死者10万余という数は、中国歴代王朝の中で群を抜いて最多であり、降伏・投降という道を潔しとせず、最後までこの王朝に仕えた人々の気概・この王朝への想いの強さが、うかがえる。


歴史を楽しむ中で、宋のように、地味でもキラリと光る国と出会うのもまた一つの喜びであろう。