平和の崩壊と新たな脅威

 宿敵ペルシアとの戦いに勝利を納めたビザンチン帝国。しかしこの国に休息する暇は与えられなかった。アラビア半島の商業都市メッカの商人であったマホメットはイスラム教を作り、キリスト教やユダヤ教徒の対立を激化させていった。しかし、成立当初のイスラム教は急速な勢力の拡大にもかかわらず、ビザンチン帝国から見ればごく小さな地方宗教に過ぎなかった。ビザンチン帝国はイスラム教を独自の宗教とはみなさず、キリスト教の一派アリオス派の一種と考えていた。ヨーロッパから北アフリカにまたがる大帝国には、多くの文化・民族が含まれており、キリスト教と言っても、地域によって宗派が異なり深刻な対立が生じていた。ペルシアとの戦いに疲れきったビザンチン帝国には、一地方宗教をまともに相手にするほど暇ではなかったのである。

 イスラム教は短期間で勢力を拡大し、ビザンチン帝国やペルシア帝国に侵入を繰り返した。そして、610年に創始されたイスラム教は635年には、ほぼシリア全域を支配下に置くまでに急成長した。皇帝ヘラクレイオス1世は自ら軍を率い、636年大規模な反撃を試みたが、ヤルムーク川の戦いで大敗を喫し、コンスタンティノープルに引き上げた。パレスティナもイェルサレム総宗教ソフロニオスの抵抗空しく、638年にイスラム勢力の手に落ちた。苦心の末、手に入れた平和が一瞬のうちに無に帰すのを目にしたヘラクレイオスの心中は察するに余りある。

 しかし、こうしたビザンチン帝国の悲劇もササン朝ペルシアの悲劇に比べれば、まだましであろう。ビザンチン帝国は領土と平和を失ったが、ペルシアは存在そのものを失ったのだから。