ウマイヤ朝の侵攻と宮廷動乱

 ササン朝ペルシアを滅亡に追い込み、勢い付くイスラム教勢力はビザンチン帝国の防御陣を次々と打ち破り、帝国のアジア領を蹂躙していった。新たな侵略者に対し、臣民が一丸となって、立ち向かわねばならない肝心な時に、ビザンチン帝国では、名物の宮廷闘争が起こる。

 ヘラクレイオス1世は「ヤルムーク川の戦い」に敗北後、641年失意のうちに没した。彼の二人の息子による帝位継承権争いが発生し、宮廷が内紛に明け暮れている間に、642年にはアレクサンドリアが陥落する。これは帝国の穀物庫であったエジプトの喪失を意味し、帝国の経済に大打撃を与えた。

 宮廷闘争に勝ち抜いたのは、ヘラクレイオス1世の孫に当たるコンスタンス2世である。彼は一時的に、アレクサンドリア奪回に成功するが、646年にイスラム側に奪い返されてしまう。さらに、「陸の民」であったアラブ人を中心としたイスラム教軍は艦隊を建造、キプロス島、ロードス島を占領、地中海征服に乗り出した。

 これに対し、コンスタンス2世は自ら艦隊を率い迎撃に当たったが、655年の海戦で、ローマとギリシアの伝統を引き継ぎ、かつて地中海全域を支配し、「我らが内海」としていたビザンチン帝国艦隊は大敗し、皇帝は命からがら逃げ延びた。

 向かうところ敵なしのイスラム帝国軍ではあったが、656年に指導者ウスマーンが暗殺される。今度はイスラム側で権力闘争が発生した。権力闘争に勝利した将軍ムアーウィアは新しくウマイヤ朝を創始したが、しばらくは国内の整備のため、ビザンチン帝国への侵攻は控えねばならなかった。