繰り返される過ちーマンジケルトの戦いー

 ビザンチン帝国の歴史を振り返ると、宮廷闘争による国力の衰退と、それに付け入る外敵の進入というパターンが永遠と繰り返される。

 バシレイオス2世が生涯をかけて再建した帝国は、早くも1034年には、彼の2代後の皇帝ロマノス3世が、皇后とその愛人により暗殺され、その後も宮廷闘争による政府の混乱が続いた。

 また、バシレイオス2世の死後、強力な指導者がいなくなると、相次ぐ対外遠征の費用をまかなう為の重税に耐え切れなくなった農民が手放した土地を購入した地方の大土地所有者や、貴族達の発言力が強まり、中央政府の弱体化が進行する。

 一方、ビザンティン帝国を取り巻く周辺勢力に目を移すと、かつて帝国の属国であったイタリアの都市国家ヴェネツィアが経済・軍事両面で台頭し、帝国を脅かす存在となりはじめる。南イタリア領は、ノルマン人の執拗な攻撃にさらされ、バルカン半島では、スラヴ人の独立運動が激しさを増し、東欧のハンガリー王国もビザンチン帝国領に侵攻してきた。

 しかし、最も深刻な打撃は、イスラム勢力との戦いである。アッバース朝の衰退に伴い、イスラム勢力内でも、いくつもの国家が割拠したが、10世紀に成立したトルコ人王朝セルジューク朝は急速に成長し、小アジアのビザンティン帝国領に侵入を繰り返してきた。

 即位以前から有能な将軍として名声が高かったロマノス4世が1068年に即位すると、セルジューク朝との戦いに本腰を入れ、同王朝に奪われた領土の回復戦争に着手した。当時のビザンチン帝国軍の主力は、ブルガリア人、アルメニア人、ロシア人などの傭兵部隊であり、皇帝に対する忠誠には疑問があった(もっとも、傭兵を軍隊の主力にするのは、ビザンチン帝国だけでなく、当時のヨーロッパ・イスラム世界ではごく当たり前のことであり、国民から徴兵された「国民軍」が戦争の主力となるのは、18世紀になってからのことである)。

 開戦当初は、ビザンチン帝国側が有利に戦いを進め、セルジューク朝は講和を求めてきた。しかし、ロマノス4世は進軍を続け、1071年両軍は小アジアの付け根に当たるマンジケルトで激突することになった。皇帝自ら指揮するビザンティン帝国軍6万に対し、セルジューク側は1万5千、数の上では圧倒的に帝国側に有利な戦いであったが、意外にも勝利はセルジューク側にもたらされた。ビザンツ側の傭兵部隊や有力貴族が裏切り、さらに、皇帝が戦死したという流言により、帝国側の指揮・命令系統が混乱したためである。

 この戦いでビザンチン帝国軍は壊滅、ロマノス4世も捕虜となった。皇帝は毎年の貢納金・身代金と引き換えに自らを開放する条約をセルジューク朝を結んだが、ロマノス4世が捕虜になったことを知った宮廷では、彼に反感をもつ者達により、ロマノス4世は廃位された。

 宮廷闘争によるロマノス4世の廃位という、ビザンチン人の近視眼的行為は、帝国の将来に深刻な打撃を与えてしまう。ロマノス4世と条約を結んでいたセルジューク朝に、再び侵略する口実を与えてしまったのである。