好敵手ペルシア滅亡

 ペルシア人は紀元前550年にアケメネス朝ペルシアを建国、この帝国は人類史上初めて全オリエント世界の統一に成功した国家となった。さらにこの国はオリンポスの神々を信仰する古代ギリシアの都市国家と激しい戦いを繰り広げ、ギリシア征服は失敗したが、古代地中海世界最強の国家として歴史に名を残した。

 こうして、ペルシア人はアケメネス朝以後民族意識を強く持つようになる。アケメネス朝時代に生まれた「ゾロアスター教」はペルシア人の民族的宗教となり、ペルシア人の歴代王朝で主要な宗教となったばかりか、イスラム教出現以前は、ウイグル人などペルシア人以外の民族にも広く信仰された。226年に建国されたササン朝ペルシアはアケメネス朝の再興を目指し、ローマ・ビザンチン帝国と度重なる抗争を繰り返してきた。しかし、両国とも決定的勝利をつかめず、和平と戦闘を延々と繰り返し、両国の抗争は永遠に続くかに思われた。

 ヘラクレイオス1世によるササン朝の帝都クテシフォン攻撃は両国の関係に転機をもたらし、ビザンチン帝国のペルシアに対する優位を決定的なものとした。地中海世界がビザンチン帝国を主軸に平和的な復興を迎えようとした矢先、イスラム教の出現である。

 ビザンチン帝国との総力戦の敗北、それに続く宮廷動乱により国力の疲弊しきっていたササン朝は勢力拡大に燃える新興勢力イスラム教徒「ムスリム」にとって絶好の餌食となったのである。ペルシア人は馬術に優れ、強力な騎兵で高い戦闘力を持つものの、反面、ビザンチン帝国のようなローマ譲りの高度な建築技術は持たなかった。そのため、ペルシアは都市の防御力が弱い。ビザンチン帝国に比べ、イスラム教徒が驚くほどの速さでササン朝の領土を侵食できたのも、国力の衰亡と文化的弱点のためである。

 ササン朝ペルシア最後の皇帝ヤズドガルド3世は、帝都クテシフォン陥落後、各地に散らばる残存兵力を集結させ、642年最後の決戦を行った。「ニハーヴァンドの戦い」として知られるこの戦いでは、ササン朝も善戦し、イスラム教勢力も総司令官が戦死するなど多大な損害をこうむったが、結局、ササン朝は敗北、ヤズドガルド3世は651年に死亡し、帝国は滅亡した。

 皇太子ピールーズは交流のあった中国の唐に救援を求めたが、救援軍の到着前に祖国ペルシアは滅亡した。その後、ピールーズは中国のペルシア人居住区の長官として余生を送り、唐の帝都「長安」で死去した。