帝都奪回運動

 1204年、第4回十字軍によって帝都コンスタンティノープルを奪われたビザンチン帝国。

 しかし、これまで数々の苦難を乗り越えてきた不死鳥は、完全には死に絶えていなかった。

 コムネノス・アンゲロス両王朝時代に着実に力を蓄えてきた貴族達は、ギリシア半島や小アジアの各地に、ビザンチン系亡命国家を建国し、帝都奪回を目指した。特にギリシア半島に建国された「イピロス専制公国」、小アジアのニケーアを首都とした「ニケーア帝国」、小アジアの黒海沿岸に建国された「トレビゾンド帝国」は有力で、コンスタンチノープル陥落=ビザンチン帝国滅亡と考えていた、「ラテン帝国」の思惑は頓挫した。もっとも、各地のビザンチン系亡命国家はお互いに正当性を主張しあい、対立することが多く、ラテン帝国の延命を手助けすることになった。

 一方の、ラテン帝国は建国後しばらくの間は、周辺のビザンチン帝国領を併合する勢いがあったが、その勢いも長くは続かず、ラテン帝国建国の立役者であるヴェネツィアの支援によって、何とか命脈を保つに過ぎなくなっていく。旧ビザンチン領各地に建国された他のラテン系諸国も、お互いに反目しあう有様。さらには、セルビア王国、ブルガリア王国が領土拡大を狙い南下の機会を伺っており、旧ビザンチン領は、各勢力が反目しあうモザイク状の混沌とした状態となっていた。

 キリスト教勢力のこうした状況は、イスラム勢力にとっては絶好のチャンスのはずだが、とき同じくして、チンギスハーン率いるモンゴル族の侵入があり、ヨーロッパ方面に積極的な攻勢に出る機会を失してしまう。

 こうした混沌の中で、ニケーア帝国は名君に恵まれる。ヨハネス3世は、国内の農業振興に力を入れ、外交的には、神聖ローマ帝国とローマ教皇の対立、ヴェネツィアとジェノヴァの対立を利用し、外圧をかわしつつ国土回復を進めていった。ニケーア帝国は、ヨハネス3世の孫であるヨハネス4世が幼くして即位すると、有力貴族であったミカエル・パレオロゴスがクーデターを起こし、1259年、ミカエル8世として即位、ここにビザンチン帝国最後の王朝パレオロゴス朝が成立する。

 ミカエルは、隣接するイスラム勢力ルーム・セルジューク朝と同盟を結び、小アジアの国境を固めると、ヴェネツィアを牽制するためジェノヴァとも同盟を結び、コンスタンティノープル奪回に力を注いだ。第4回十字軍による帝都陥落から50年、ビザンチン人達の悲願であった帝都奪回は、意外にもあっけなく実現する。ヴェネツィアの軍事作戦に協力するため、ラテン帝国の主力が帝都を留守にしている間に、たまたま偵察に出ていたニケーア帝国軍が、防御が手薄になったコンスタンティノープルを強襲。さしたる抵抗もなくコンスタンティノープルは、再びビザンチン人の都となり、ラテン帝国はあっけない最期を遂げた。