試練の時

 ペルシア軍は、破竹の勢いで、クーデターにより指揮系統の混乱したビザンチン帝国軍を撃破し、その支配圏を急速に拡大していった。コンスタンティノープル、ローマと並ぶ初期キリスト教五本山のうちアンティオキア(611年陥落)、イェルサレム(614年陥落)、アレクサンドリア(619年頃陥落)が次々に陥落し、アジア側のビザンチン帝国領は壊滅状態となった。特に、イェルサレムにあった聖遺物(キリストが磔にされたときに使われたといわれる十字架)がペルシアに奪われたことは宗教的な打撃となった。さらに、ペルシアと同盟したアヴァール人によって、東欧のビザンチン帝国領も略奪された。帝位についたヘラクレイオスはホスローに対し和平を求めた。もし、ホスローが純粋に義理の父であるマウリキウスの敵討ちを目的としていたならば、フォーカスを処刑したヘラクレイオスとは平和を共有できるはずである。しかし、ヨーロッパの征服者となる絶好の機会をホスローが逃すはずもなく、ペルシアは侵攻を続けた。

 ビザンチン帝国側の劣勢の背景には開戦当時、ヘラクレイオスが妻エウドキアを亡くした事もあげられよう。最愛の妻を亡くしたショックが難局に挑む彼の気力すら奪っていたのである。彼はコンスタンティノープルを捨て、残されたアフリカ領に逃亡すら計画していた。しかし、脱出のため先行させていた財宝を積んだ艦隊が遭難するという偶発的な出来事、当時のコンスタンティノープル総大主教でヘラクレイオスの友人であったセルギオスの説得により、反撃を決意した。また、近親相愛と非難されながらも、姪であったマルティナ結婚したことが、彼の勇気を奮い立たせたようである。

 しかし、ヘラクレイオスが反攻を決意した当時、帝国の置かれた情況は絶望的であった。ペルシア・アヴァール連合軍は帝国領奥深く侵攻しており、帝都コンスタンティノープルの目前まで迫っていた。ヘラクレイオスはここで、『肉を切らせて骨を絶つ』捨て身の作戦に打って出た。自国領内に侵攻した敵軍を撃退するのではなく、直接ササン朝ペルシアの帝都クテシフォンを突くのである。

 

 622年クテシフォン攻略部隊を乗せた艦隊がコンスタンティノープルの港を出港する。

 

 攻略部隊の指揮はヘラクレイオスが直接指揮し、留守中の帝都の守りは総大主教セルギオスと元老院に任せた。もはや、当時の帝国には、ペルシアとアヴァールを同時に撃退するだけの戦力はなく、残された領土を守る戦力すらもなかった。帝都のみの防衛に専念し、残りの領土を放棄、近衛軍団を含め残った戦力すべてを敵の帝都陥落のために叩き込む 乾坤一擲、いちかばちかの賭けであった。