聖像崇拝紛争と西欧での権威失墜

 アラブ人の帝都攻撃を撃退し、軍人としては有能であったレオン3世。しかし、政治家としての彼は「世界帝国ローマ」の統治者として、多様な民族、考え方を許容してきたビザンチン帝国の歴史上ひとつの重大な問題に取り組まなければならなかった。宗教問題である。

 世界史上、ビザンチン帝国は「皇帝教皇主義」と呼ばれる世俗の長と、宗教(キリスト教会)上の長を兼ねる独特の統治体制を採っている。宗教上の長も兼ねるということは当然、宗教上の問題の処理も最終的には皇帝の裁可に委ねられることになる。しかし、アジア、ヨーロッパでは文化圏が異なり、一言に「キリスト教」といっても、教義に違いが生じる。宗教が生活の隅々にまで影響を持っていたビザンチン帝国の社会では宗教的紛争が深刻な政治的紛争を引き起こすことも少なくない。

 レオン3世は自らの支持する宗派(聖像崇拝禁止派)に対立する宗派(聖像崇拝派)を弾圧。

 その結果、ローマ教皇との深刻な対立を引き起こすことになる。コンスタンティノープル総大主教(皇帝を除くと東方キリスト教会の頂点)とローマ教皇は反目し合い、のちに、ギリシア・東方正教会とカトリック教会の分離を引き起こすことになる。この「聖像崇拝紛争」と呼ばれる宗教紛争はレオン3世の死後も続き、最終的には聖像崇拝派が勝利するが、ビザンチン帝国の名物である宮廷闘争も加わって、国内の混乱に付け込んだイスラム帝国の進入を容易にした。

 幸運にも、イスラム帝国内部でも、ウマイヤ朝から、アッバース朝への王朝交代に伴う内紛があり、ビザンチン帝国は致命傷を受けずに済んだ。

 しかし、西欧では、751年、イタリアにおけるビザンチン帝国の拠点であったラヴェンナ総督府が、ロンバルト王国によって、ついに陥落。

 続いて、800年にはビザンチン帝国に対抗するため、ローマ教皇レオ3世がフランク王国、国王カールを「西ローマ帝国」に任命(「西ローマ帝国」の復活)したため、ビザンチン帝国の勢力は東・西両面で縮小してしまった。

 特に、西ローマ帝国の復活を許してしまったことは、西ヨーロッパにおけるビザンチン帝国の権威失墜、東西両ヨーロッパ文化圏の分裂を象徴する事件であった。

 かつて北アフリカ、イギリス、小アジア、スペインなど、多様な文化・考えを抱擁していた「ローマ帝国」は次第に排他性を増し、ビザンチン帝国にいたり宗教的紛争を乗り切り、西ヨーロッパを失い、「異質なものを排除」することによって、国家として生き延びていくのである。