はじめに

1453年5月29日 

帝都コンスタンティノープル陥落

 

双頭の鷲を描いた帝国旗が引き降ろされ、伝説のトロイア戦争の英雄アイネイアースを建国者とする一つの国家が滅びた。

 

その国の名は ローマ帝国

 

395年、テオドシウスによるローマ帝国東西分割以降、ローマ帝国の西の片割れは100年を経ずして歴史の激流の中に消えていった。しかし、東の片割れは幾多の危機を乗り越え、古代ギリシアとローマの文化から影響を受けながらもそれらとは違い、オリエントの影響からそれを十分に吸収しながらも独自性をもった高度な文明を発展させてきた。

 後世の人々は、この国を「(古代)ローマ帝国」、「西ローマ帝国」と区別するため、便宜上「ビザンチン/ビザンツ帝国」「東/中世ローマ帝国」と呼んだが、この国は紛れも無く、330年のローマ帝国皇帝コンスタンティヌスによるコンスタンティノープル遷都以来続いた「ローマ帝国」そのものであった。

 事実、中世地中海世界において「ローマ帝国」といえば、ビザンチン帝国のことをさしたし、帝国の人々は自らの皇帝を「ローマ皇帝」、自らを「ローマ人」を呼び、他の民族にもそう呼ぶことを求めた。コンスタンチティープルへの遷都以来、人種的にはギリシア化がすすみ、ローマ帝国の面影は日に日に失われていったが、歴史に名高いユスティニアヌス帝をはじめ、歴代の皇帝たちは地中海を「我らが内海」とした「世界帝国 ローマ」の復活・高貴な洗練された文化の振興に情熱を、燃やし続けた。

 最盛期、古代ローマ帝国に迫る領土を誇ったビザンチン帝国ではあったが、その滅亡時は帝都コンスタンティノープルのほか、ギリシア半島のごく一部の領土を支配する弱小国家に成り果てていた。

 しかし、それでもなお、彼らは「ローマ帝国」であることの誇りを棄てず、圧倒的優勢な敵に立ち向かった。バルカン半島は現代でもなお民族紛争の絶えない世界の火薬庫とも呼ばれている。民族の往来が激しく、国家の存続が難しいバルカン半島を中心に、地中海世界で1000年ものあいだローマ帝国の伝統と名誉を守り続けたビザンチン帝国の生き様をここでは見ていくことにしよう。ビザンチン帝国は1000年もの歴史があるため、ここではフェニックスの独断と偏見で、この国の歴史を、前期、中期、後期三つに区切って考察する。また、この区分はフェニックス独自の区分であり、専門書や学説の区分とは異なることを申し添える。