西ローマ帝国の滅亡

 ローマ帝国で初めてキリスト教を公認し、ローマ帝国のキリスト教化の端を開いたコンスタンティヌス1世は、330年、コンスタンティノープルをローマ帝国の新都として建設した。

黒海と地中海を結ぶボスポラス海峡に面し、アジアとヨーロッパの接点という交通の要衝であったコンスタンティノープルは「第2のローマ」として、100年足らずの間に急速に発展し、395年テオドシウス1世がその死に際し帝国を東西に分割した時には、地中海世界最大の都市となっていた。

一方、「ローマ帝国」という名にも関わらず、ビザンチン(東ローマ)帝国はもちろん、西ローマ帝国においてすら、ローマは、もはや帝都とはなりえず、西ローマ帝国の帝都は、イタリア半島内を転々と移っていた。これは、帝国内での内紛やゲルマン人を中心とする異民族の進入により、ローマが荒廃したためである。

 395年のローマ分割後、西ローマ帝国は、ゲルマン人により、国土を蹂躙され、急速に滅亡への道をたどることになる。一方ビザンチン帝国は、こともあろうに、ゲルマン人を懐柔し、その進路を西ローマに向けさせることに成功する。ローマ帝国分割時、すでに、帝国の富や人材はビザンチン帝国に集中し、西と東の国力の差は、歴然としていた。にもかかわらず、ビザンチン帝国は西ローマを助けるどころか、いわば、西ローマを生け贄にすることで、国土の荒廃を防いだのである。西ローマ帝国では、恐るべき外敵の侵入をよそに、宮廷内での陰謀やクーデターが続発し、頻繁な皇帝の交代により、国がまとまることはなかった。

 476年、紀元前27年(アウグストゥスの元首政開始)から始まる「ローマ帝国の西の片割れ」は、傭兵として雇っていたゲルマン人オドアケルによって滅亡する。しかし、滅亡時、イタリア半島の秩序すら保てず、国力の疲弊しきっていた西ローマの滅亡は、当時の地中海世界においても、それ程ショッキングな出来事ではなかったようである。

 ゲルマン人の侵入は、紀元後1・2世紀頃から続いていた。武力による侵入ばかりが注目される彼らであるが、実際には傭兵や、農奴として平和的に移り住む者がほとんどであった。東西の両ローマ帝国では、傭兵としてゲルマン人を多用し、ゲルマン人同士が戦うことも珍しくはなかった。

宮廷での権力闘争により、皇帝がめまぐるしく替わっていった西ローマ帝国では有能な傭兵が皇帝の側近となり、クーデターにより皇帝を廃位することも十分に予想し得た事である。そして、この宮廷闘争は西ローマ帝国のみならず、ビザンチン帝国でも頻発し、帝国の弱体化と強大化の両方に寄与していくことになる。