ペルシアとビザンチンのクーデター

 マウリキウスの治世、ササン朝ペルシアでは、貴族のバハラームがクーデターを起こし、国を追われた皇帝ホスロー2世はビザンチン帝国に亡命した。マウリキウスは、ホスローを支援し、ホスローの復位に協力。ここに、マウリキウスを「父」、ホスローを「息子」とする両帝国間の同盟が成立した。両国の平和はマウリキウスの死まで誠実に守られることになる。

 ペルシアとの平和を実現したビザンチン帝国は東欧領土において略奪の限りを尽くしていたアジア系の蛮族アヴァール人に対しても反撃し、これを撃退することに成功する。しかし、マウリキウスが規律の乱れた軍隊の改革に着手したところ、既得権益を脅かされた軍は、フォーカスという軍人を皇帝に担ぎ出しクーデターを起こした。マウリキウスは、息子達が目の前で惨殺される様を見せられた末、処刑された。

 マウリキウスが処刑された事を知ったペルシアは、父であるマウリキウスの仇討ちを大義名分として、ビザンチン帝国領内へ進軍し、シリアにまでその領土を広げていった。これに対し、簒奪者フォーカスは有効な対応策を講じないないばかりか国内を恐怖政治で混乱させ、帝国の混乱を深刻なものにしていった。帝国の弱体化に乗じてアヴァール人も侵入を再開するという危機的状況の中、アフリカ総督ヘラクリウスの息子であったヘラクレイオス1世はクーデターにより610年、フォーカスを処刑し、ビザンチン帝国ヘラクレイオス朝を創始した。