救世主登場

 ロマノフ4世を廃位し、政権を掌握したクーデター派ではあったが、彼らには、危機に便乗して、政権を盗む能力はあっても、広大な帝国を統治し、強大な敵に立ち向かう能力は備えていなかった。

 即位したミカエル7世の下では、悪化した財政を立て直す為、金貨に含まれる金の含有量を低下させ、結果、インフレを引き起こした。また、帝国各地で、有力貴族による反乱が続発した。このような状況で、帝国がセルジューク朝に対抗できるはずもなく、小アジアでは、広大な領土がセルジューク朝に奪われた。

 また、マンジケルトの戦いがあった1071年、ビザンチン帝国領イタリア南部の拠点都市「バリ」が、ノルマン人の攻撃で失陥した。1078年に即位したニケフォロス3世も無能であり、再び宮廷闘争が発生し、名門貴族であるコムネノス家出身のアレクシオス1世が即位した。コムネノス朝の成立である。

  帝国史上有数の名君として知られるアレクシオス1世の即位時、国内は疲弊し、アジアからはセルジューク朝が、ヨーロッパからはノルマン人、スラヴ人が帝国に襲い掛かり、財政の悪化による海軍の縮小が、帝国の制海権の喪失をもたらし、経済的には、ヴェネツィアなどの新興都市国家に主導権を奪われるといった惨憺たる状況であった。

 アレクシオス1世の娘で、歴史家として有名なアンナは、アレクシオス即位時の帝国の状況を「帝国は息を引き取ろうとしていた」と評した。確かに当時の帝国を取り巻く状況は過酷ではあったが、幸い、15世紀滅亡時の帝国と異なり、有能な指導者に恵まれれば、国力を盛り返すだけの余力を残していた。

  アレクシオス1世は、即位後、有力貴族を同盟や婚姻政策によって取り込み、国内の支配体制の強化すると、ビザンチン帝国が得意とする「夷をもって夷を制す」外交戦術によって、敵勢力が結束し、帝国に襲い掛かってくることを防いだ。 ヴェネツィアに商業特権を与える代わりに、ヴェネツィアのもつ強力な艦隊を提供させ、シチリアから進行してくるノルマン人を牽制するとともに、宿敵であるはずのセルジューク朝とも一時的に和を結び、スラヴ人の民族間の対立を利用して結束を阻み、バルカン方面の支配を強化した。こ うして、ある程度ヨーロッパ方面での帝国の防衛が安定すると、今度は、小アジアのセルジューク朝との対決に臨む。

 しかし、当時の帝国の国力では、単独でセルジューク朝に対抗することは困難であった為、ローマ教皇ウルバヌス2世に対して、救援を求めた。これが有名な「十字軍運動」の契機である。ただ、ビザンツ側の意図は、まとまった「傭兵部隊の派遣」であったものと思われるが、実際に派遣されてきたのは、想像を越えるフランスの有力諸侯を中心とする「大規模な遠征軍」であった。