帝都喪失

 コムネノス朝最後の皇帝アンドロニコス1世は、貴族の強大化を抑え、皇帝支配権の強化を図ったが、貴族達はこれに反発、両シチリア王国の侵略に端を発する帝都の暴動で、アンドロニコスは殺害され、「コムネノス朝」支配は終わりを告げる。


 アンドロニコスの強権政治に反発していた貴族階級のリーダーであったアンゲロス家のイサキオスが皇帝(イサキオス2世)となり、「アンゲロス朝」が創始される。しかし、両シチリア王国の侵攻は撃退したものの、アンゲロス朝期の帝国は各地で貴族の反乱が相次ぎ、イサキオスは1195年、実の弟のアレクシオス3世の陰謀で廃位されてしまう。


 ここまでならビザンチン帝国名物の宮廷闘争で終わるが、イサキオス2世の息子で、アレクシオス3世の甥に当たる同名のアレクシオス(4世)は、イタリアに救援を求め、丁度ヴェネツィアに払うイェルサレム行きの船賃の不足に困っていた第4回十字軍と合流する。

 「ベニスの商人」での「悪徳商人」のイメージが強いヴェネツィアは、宗教上の情熱より、経済的利益を重視する現実主義であり、十字軍がアレクシオス4世を援助し、アレクシオス3世を倒し、ビザンチン帝国からの謝礼金をイェルサレムまでの船賃に当てることを提案、資金難にあえいでいた十字軍はしぶしぶヴェネツィアに協力し、ビザンチン帝国の帝都コンスタンティノープルを攻撃した。1203年6月24日、コンスタンティノープル攻略戦が開始される。ビザンチン側は激しく抵抗し、度々十字軍を撃退していたが、7月16日、気力負けしたアレクシオス3世が逃亡してしまい、アレクシオス4世が帝位に就いた。

 こうして、十字軍の力を利用して帝位に就いたアレクシオスであったが、元々国力の疲弊したビザンチン帝国には、もはや巨額の謝礼金を払う財産は残っていなかった。十字軍へ約束していた謝礼金の支払いは遅々として進まず、十字軍の不満は高まるばかりであった。ビザンチン帝国の側でも、帝都の市民は野蛮な十字軍に対する軽蔑から、また、東西キリスト教会の対立から、十字軍とローマ教皇によって帝位に就いたアレクシオス4世に対する不満は募るばかりであった。

 こうしたなか1204年1月、またしても宮廷でクーデターが勃発し、アレクシオス4世は殺害され、新皇帝アレクシオス5世が即位する。傀儡皇帝であったアレクシオス4世を殺され、謝礼金の約束も反故にされた十字軍は激怒し、再び帝と攻略戦が開始された。クーデターによって、まんまと帝位に就いたアレクシオス5世は十字軍の攻撃に対して何の有効な対抗策も考えていなかった無能者であり、皇帝はまたもや臣民を捨てて逃亡。


 ついに1204年4月、帝都コンスタンティノープルは、同じキリスト教徒の十字軍によって占領される。市内では、十字軍による凄まじい略奪・暴行が行われた。今日、ヨーロッパ各地に残るビザンチン帝国の貴金属や聖遺物は、この十字軍参加者が略奪し、持ち帰ったものである。

 同年、十字軍はコンスタンティノープルを首都とする「ラテン帝国」を建国。

 「偉大なる、世界帝国ローマ」は異民族の侵入に直面しながらも、絶えず宮廷闘争を繰り返し、国力を「浪費」してきたが、目前の危機にもかかわらず、団結することを知らず、ほとんど「自滅」する形で滅亡するのである。


しかし、ローマの歴史はこれでは終わらない・・・