ビザンチン帝国の西欧政策

 イスラム勢力内部の権力闘争、それに続くウマイヤ朝の攻撃の休止のため、ビザンチン帝国はヨーロッパ方面に力を入れる余裕が出てきた。コンスタンス2世はイタリア政策を重視し、自らイタリアへ遠征した。当時、イタリアは半島の大半をゲルマン人のロンバルト王国に支配されていたが、ローマ・ラヴェンナ周辺や南イタリアはかろうじてビザンチン帝国が死守していた。ローマとコンスタンティノープルの間には、キリスト教世界の首位争い、教義上の争いはあったが、ローマ教皇は防衛のためにビザンチン帝国の軍事力に頼る他なく、いまだにビザンチン帝国皇帝に忠誠を誓っていた。

 コンスタンス2世はイタリア遠征でロンバルトとの戦いに勝利し、ローマで教皇の歓迎を受けた。そして、地中海シチリア島の都市シラクサに居所を移した。これは彼が如何にヨーロッパ方面の支配を重視していたかの現われであった。シラクサは、いまだビザンチン帝国領として残っていたカルタゴ周辺の北アフリカとローマの両方に睨みを利かすことのできる位置にあった。

 イタリア半島には、ビザンチン帝国の総合出先機関として、「ラヴェンナ総督府」が置かれ、ラヴェンナ総督がイタリア領土の防衛、ローマ教皇との連絡の任にあたっていた。「ローマ帝国」を自認するするビザンチン帝国にとって、イタリアは帝国発祥の地であり、イタリア領は世界帝国ローマの象徴なのである。