十字軍との不協和音

 今でこそフランスは国際社会の大国であり、文化的にも最先端を行く国であるが、中世においては、西欧は地中海世界の片田舎であり、東欧やイスラム圏に比して遥かに「遅れた、野蛮な地域」であった。十字軍は、その宗教的な動機もさることながら、参加諸侯の経済的な収穫への期待も主要な動機となっており、十字軍はコンスタンティノープルに達するまでに東欧各地で、略奪を繰り返し、ビザンチン帝国からは不信の目で見られた。十字軍側でも、「ローマ帝国」であることをひたすら誇示し、尊大に振舞うビザンチン帝国に対して不信を持っていた。

 それでも一応、十字軍がイスラム勢力から奪回した「元ビザンチン帝国領」はビザンチン帝国に引き渡す約束がなされ、緒戦ではビザンチン側と十字軍側の協力も上手くいっていたが、1098年のアンティオキア奪還の頃から、ビザンチン側と十字軍側、更には、十字軍内部の亀裂が生じ始める。幸い、イスラム勢力側でもセルジューク朝やファーティマ朝の対立があり、結束してキリスト教勢力に対処できない状況であったため、1099年には十字軍はイェルサレムを陥落させるまでに、戦況はキリスト教勢力優位に進んだ。

 第1回十字軍は1099年に終了。広大なシリア・パレスティナの地には、イェルサレム王国、アンティオキア公領、トリポリス伯領、エデッサ伯領などの独立国家が建国され、ビザンチン側も小アジア西部に勢力を拡大し、経済の立て直しを図り、帝国艦隊の再建も進めた。

 本来、十字軍運動はイスラム勢力に対するキリスト教勢力の戦いであったはずだが、12世紀に入る頃には、地中海東部の国際情勢は、十字軍諸国、ビザンチン、イスラム諸国が、時には協力し、時には対立し、自らの勢力拡大に腐心するという、群雄割拠の様相を呈していた。

 ビザンチン帝国にとって、アレクシオスの当初の思惑とは、掛け離れたものになったものの、十字軍諸国を「盾」として利用し、国土の防衛を図ることには成功、「夷を持って夷を制す」ビザンチン外交の本領を発揮し、危機を脱するのである。