ここでタイ王国はどのようにして欧米列強の魔の手を逃れ、独立を守り抜いたのだろうか。結論から先にいえば、日本と同様に西洋的な近代化を推し進めたのである。タイ王国にとって幸いなことに、チャクリ朝の歴代の君主はおおむね有能であり、暴君といったたぐいの王はいなかった。周辺諸国が次々とヨーロッパの植民地にされてゆく困難な時期、タイは二人の名君に恵まれた。モンクット王(ラーマ四世)とチュラロンコーン大王(ラーマ五世)である。

 モンクットは即位前は仏門に入っていたが、異母兄弟のラーマ三世が死去すると即位した。仏門に入っていたなどというと非常に保守的でお堅いイメージを抱きがちだが、彼は語学に堪能で、西洋文明の優れた点、西洋の恐ろしさを理解していた。したがって、彼は欧米を刺激することを避け、友好関係の維持につとめ、軍隊・司法・行政・立法・教育の近代化につとめた。彼は何とか独立を維持しようとし、英仏との不平等条約の締結を受忍した。内容は治外法権の受諾と関税自主権の欠如であり、日本が欧米と結んだ不平等条約とほぼ同様のものである。タイはその後アメリカ、オランダ、オーストリア、ベルギーなどの欧米諸国とも不平等条約を結んだが、なぜこのように多くの国々と条約を結んだのかというと、多くの国と条約関係を作ることで、欧米列強のタイに対する力を相殺するねらいがあったためである。しかし、彼の治世、フランスの圧力により、タイは長年保持してきたカンボジアに対する宗主権を放棄させられた。

 次に即位したチュラロンコンは、父の西欧化政策をさらに推し進めた。彼の在位期間(1868年~1910年)は、日本の明治天皇の在位期間(1868年~1912年)とほぼ一致する。彼の治世、列強からの圧力はさらに強まり、フランスの圧力でタイはラオスに対する宗主権も放棄し、イギリスにもタイ南端の四州を割譲せねばならなかった。その甲斐あって、タイは英仏の緩衝地帯として独立を維持することに成功するが、払った代償も大きかったといえる。

 タイは第二次大戦直前の国際情勢の微妙な時に、地理的な重要性を利用して欧米との不平等条約の完全な改正に成功し、大戦中は独立を維持するためもあり、日本の同盟国として、枢軸国側について参戦、そのためタイは他の東南アジア地域が日本によって搾取される中で、比較的被害を被らずに済んだ。それどころか、日本軍の勢いに便乗して英仏に割譲した領土の一部を奪回する(大戦後、英仏に返還)。さらに戦後は枢軸国の中でいち早く国際連合への参加を認められ、冷戦が激化すると、東南アジア随一の親米国として、アメリカから大量の援助を引き出すことに成功し、今日に至る。

 以上のように、タイの生き方は周囲の国々が、大国と勇敢に戦い破れてゆく中で、時の大国に媚びを売って独立を維持、あわよくば勢力を拡大するという狡猾だが、あまり格好はよくない生き方のように思えるかもしれない。

 しかし、一度独立を失ってしまえば、もはや自らの生き方を自分で決めることはできなくなってしまう。自らの文化を踏みにじられ、征服者の文化を押しつけられてしまうのである。それを思えばどんなに格好が悪くとも独立国として踏みとどまる方がましである。タイの歴代の為政者達にしても、誰が好き好んで他人に媚びを売るだろうか。また、強者の機嫌をとるだけでは独立は維持できない。強者が「独立国とさせておく方がよい」と、思わせるだけの価値を持たなければ独立は維持できないのである。そのために歴代の為政者達がどれだけ苦労してきたかは、同じ独立国でも海に囲まれた東の端の島国、日本の為政者達の比ではあるまい。