ポーランド小史

【中欧の名門 ポーランド王国】

 ポーランド人は愛国心とカトリック信仰の強い国民として有名である。では、ポーランドとはどういう国なのだろうか。ポーランドは西スラヴ族によって建国され、最初の統一王朝であるピアスト朝のミェシュコ1世の治世、カトリックの布教を名目に侵入してくる神聖ローマ帝国に苦しんだ彼はカトリックを受け入れた。

 以後、ポーランドはカトリック文化圏の一翼をになうことになった。この王朝は1333年に王位についたカジミエシュ3世(カシミール大王)の治世に全盛期を迎える。彼はポーランドの中央集権化をはかり、クラクフ大学を創設したが、彼の死後すぐにピアスト朝は断絶した。

 その後、国力の低下したポーランドは、侵入してくるドイツ騎士団に対抗するため、リトアニア大公国と合体し、ポーランド女王とリトアニア大公の結婚による、ヤゲロー朝が成立した、この王朝は、1410年のタンネンベルクの戦いでドイツ騎士団を破り、後にはボヘミア国王、ハンガリー国王を兼ね、中部ヨーロッパの名門として一大勢力となった。

 現代のポーランドの国章『王冠をつけた鷲』は、このヤゲロー朝の栄華を象徴するものであり、この時代はポーランド人にとって誇りとなっている。しかし、1572年ヤゲロー朝は断絶し、以後、選挙王制による有力貴族間の抗争などによって国力は衰退していった。


【亡国の悲劇】

 そして、18世紀のプロイセン、ロシア、ハプスブルクによる3回にわたるポーランド分割によって、この国は消滅してしまう。この間、第2回ポーランド分割時に、愛国者として知られるコシューシコは、ポーランドの独立維持のため反乱を起こすが、ロシアの大軍の前に鎮圧された。3国に併合されたポーランドの統治は三者三様である。

 多民族統治の伝統が強いハプスブルク帝国統治下のポーランド人たちは、独自の言語・文化の保持・発展が認められ、後には自治権まで手に入れることになる。一方、他の2国は同化政策を推進し、ポーランド人は独自文化の維持するため、苦しい戦いを続けた。

 ナポレオン戦争時、ナポレオンはフランスの傀儡政権として、プロイセンに併合された旧ポーランド領にザクセン王が国王を兼ねるワルシャワ大公国をつくる。しかし、この国家もナポレオン戦争の戦後処理のために開かれたウィーン会議によって消滅し、代わって、ロシアの皇帝が王を兼ねるポーランド立憲王国が成立する。しかし、これは実質的にロシア帝国の一領土でしかなかった。ポーランド人は独立を求めて度々反乱を起こすが、その都度ロシア軍によって鎮圧され、1863年ロシア皇帝アレクサンドル2世はこの国を完全に併合してしまった。


【国家の復活と二度の大戦】

 第一次世界大戦中に  ポーランド人は念願の独立を回復した。そして、ロシアによって失った領土を取り返すために、ソヴィエト・ポーランド戦争を起こし、ロシア革命の直後で混乱していたソヴィエトに侵攻、ヤゲロー朝時代の東方領土をほぼ回復した。しかし、ナチス・ドイツからの領土割譲要求を拒否したポーランドは、ドイツの奇襲攻撃を受ける。これが引きがねとなって第二次世界大戦がはじまる。もともと軍事力で圧倒的に劣勢であった上に、不可侵条約を結んでいたはずのソヴィエトが条約を破り、背後から攻撃してきたため、ポーランド正規軍は壊滅、ポーランド政府は亡命を余儀なくされた。しかし、国内のポーランド人はナチスの弾圧にも屈せず、レジスタンス活動によって抵抗を続けた。


【共産党政権と自由の回復】

 第二次世界大戦後は、共産主義国家としてソ連の衛星国になるが、ロシア時代からの圧政に苦しめられてきた国民の反ソ感情は強く、信仰心の厚い国民が無神論を唱える共産主義を受け入れるはずもないため、ポーランドの共産党政権は政権獲得当初から、カトリック教会の尊重や個人経営農民の存在の容認など、国民の要求に対して、大幅な譲歩をし続けなければならなかった。東西冷戦期、ハンガリーやチェコでも、ソ連の影響を脱し、民主化を模索する動きが見られたが、これらの動きはソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍により圧殺された。

 ポーランド共産党政府はソ連の軍事介入を慎重に排除し、国民の反ソ感情にも、できるだけ応えるという「サーカスの綱渡り」的な困難な統治を続けた。

 共産党政権も彼らなりに、ポーランドを愛していたし、二度と外国人に国土を踏みにじられまいとする信念をもっていたのである。外国の介入を許さない思いはポーランドの民主化運動に携わる者たちも同じであり、ポーランドではソ連を刺激しないように、慎重でスローテンポだが着実な民主化が進んだ。また、民主化運動が過激になることを抑えるうえで、カトリック教会の存在を忘れてはならない。故ヨハネ・パウロ2世(位1978~)はハドリアヌス6世(位1522~1523)以来の「非イタリア人教皇」であり、ポーランド人の信仰心の厚さを象徴している。教会は国民と政府の対立を度々仲裁しており、ポーランド社会の「潤滑油」的な役割を果たしていたのである。

 1989年、ポーランドは国名を「ポーランド人民共和国」から「ポーランド共和国」に改め、共産主義時代に使っていた『(王冠のない)鷲』の国章を改め、ヤゲロー朝以来の伝統である『王冠をつけた鷲』の国章を復活させた。そこにはポーランド人の独立に対するこだわりと古き良きポーランドの復活を目指す情熱が見て取れる。

 近年のロシアのウクライナ侵攻に対し、民主化後NATOに加盟していたポーランドは、いち早く警戒を強め、国内駐留のNATO軍を増強させた。これは過去の歴史の中で、ポーランド人に植えつけられた反ロシア感情の表れであろう。