タイ王国の歴史はスコータイ朝に始まる。現在ではタイといえば「小乗仏教の盛んな国」として知られているが、スコータイ朝の建国前、タイ族がクメール帝国の支配に服していた頃は、タイ族は「バラモン教」や「大乗仏教」を信仰していたのである。タイ族が現在のように小乗仏教を信仰するようになったのは、このスコータイ朝からである。モンゴル帝国の征服活動はこの王朝の頃に行われたが、この王朝は元朝と友好関係と保ち、東南アジアの他国が滅ぼされたり、国内が混乱する中で、自国の勢力の拡大に成功する。

 スコータイ朝の次に起こったアユタヤ朝は海外との交易を活発に行う。特にヨーロッパとの交易が行われたことは注目すべきである。この時代は日本人の海外渡航も活発で、タイにも日本人町が作られた。アユタヤ朝に使える外国人も多く、日本人の中にも、この王朝の行政長官として山田長政が活躍している。タイでは17世紀末になると外国人の政治活動に対する民族主義的反発が強まり、18世紀に入るとヨーロッパとの関係は疎遠となってゆく。しかし、日本の鎖国のように自分の殻に閉じこもるようなことはなかったようである。この王朝は隣国ビルマとの争いが絶えず、抗争は 16世紀から18世紀まで及んだ。この抗争に決着をつけたのがビルマ(アラウンパヤー朝)による王都アユタヤ攻略である。

 アユタヤ朝を滅ぼしたビルマではあったが、アユタヤを陥落させたわずか数ヶ月後には、タイ人の反撃によって、追い返されてしまう。これはビルマが清朝による侵入を受け、本国防衛のために兵力を割かねばならなかったからであり、タイ人にとってはまことに幸運な出来事であった。

 タイでは、トンブリ朝と呼ばれる王朝の短い統治を経て、チャクリ朝が始まる。

 これがタイの現王朝である。ビルマはこの王朝にも攻撃を仕掛けてくるが、撃退され、さらにはイギリスとの戦争(イギリス=ビルマ戦争)に突入してしまい、侵略どころではなくなってしまう。タイはかねてより、カンボジア、ラオスに対して宗主権を行使していたが、ヴェトナムも両国に対して宗主権を主張するようになる。しかし、本格的な抗争に発展する前に、ヴェトナムはフランスの植民地になってしまう。タイのライバルはこうしてヨーロッパ列強の国々によって次々と消えてゆくわけであるが、タイ人にとっても喜んでばかりはいられなかった。ヨーロッパの魔の手はタイ人の目の前まで迫っていたのである。