世界帝国の幻想

 アレクシオス1世、ヨハネス2世という親子二代の名君に恵まれ、国力を回復したビザンチン帝国。

 ヨハネス2世の息子マヌエル1世は1143年に皇帝となると、「世界帝国ローマ」の再現に着手する。 

 ビザンチン帝国の政治的イデオロギーは、「古代ローマ帝国の正当な末裔、地中海世界の統一的支配者、キリスト教の守護者」であり、これはローマ帝国の東西分裂以後一貫して守られてきた。

 しかし、現実を見れば、アフリカ・スペイン領はとうの昔に失われ、世界帝国どころか、外敵からの侵入を撃退するための、生存競争に明け暮れる日々であった。マヌエル1世は、失われたローマ帝国の栄光を取り戻す情熱に駆られ、積極的な対外戦争を行った。

 第2回十字軍の最中、両シチリア王国(ノルマン人)は帝国の関心が東方に集中している隙をついて、帝国西部のギリシア半島各都市を略奪。1155年に始まるイタリア戦役の発端は、このノルマン人の蛮行に対する報復戦争を口実としていた。

 マヌエルは神聖ローマ皇帝コンラート3世やヴェネツィアと協力し、報復戦争を予定した。ビザンチン側の意図は、神聖ローマ帝国やヴェネツィアの戦力を使って、イタリア半島への影響力を拡大するというものだった。しかし、コンラート3世が戦争前に他界、次いで宿敵両シチリア王国の国王ルッジェーロ2世も他界してしまう。敵の指導者が消えた絶好のチャンスをマヌエルは逃がさなかった。ビザンチン帝国は遠征軍を派遣、両シチリア国王配下の諸侯を買収し、味方に引き入れると、現地で傭兵を雇い入れ一気に勢力を拡大した。緒戦では、ビザンチン帝国の圧勝であり、「バリ」を中心に南イタリアの広大な領土がビザンチン帝国に帰した。

 しかし、ビザンチン帝国の急速な勢力拡大は、ローマ教皇、神聖ローマ帝国などイタリアの利害関係国に警戒感を抱かせてしまう。ビザンチン帝国の戦略構想も問題であった。元々当時のビザンチン帝国には、ユスティニアヌス帝期のような、征服戦闘に耐え得る十分な戦力は有していなかったのである。1156年体制を立て直した両シチリア王国軍が大挙して反撃に出ると、ビザンチン帝国が獲得(回復)した南イタリアの広大な領土は一気に失われ、その後、帝国は多少の反撃に成功するものの1158年に和平が結ばれ、何の領土も得られないままイタリア戦役は終結する。

 次いで、1171年、帝国は同盟国であったはずのヴェネツィアとも戦争状態に突入してしまう。ヴェネツィアは、強力な海軍と経済力によって、帝国に対する影響力を強め、コンスタンティノープルのヴェネツィア人居住区の住民は、もはや「ローマ皇帝」に対しても不遜な態度を隠さなくなった。「誇り高いローマ皇帝」マヌエルは、これ以上ヴェネツィア人の蛮行を野放しにできないと考え、1171年、在留ヴェネツィア人を一斉に検挙し、財産を没収した。怒ったヴェネツィアも、本国から100隻以上のガレー船からなる強力な艦隊を出動させたが、ビザンツ側もあらかじめヴェネツィア艦隊との決戦を予期し、艦隊を建造していた。遠征してくるヴェネツィア艦隊との正面決戦を避け、補給線の引き延ばしによって敵の疲労がピークに達した時点で、ビザンチン帝国艦隊が襲い掛かる。地中海最強と謳われたヴェネツィア艦隊は戦力の3分の2を失う惨敗を喫し、ヴェネツィアの指導者(ドージェ)ヴィターレ=ミキエルは敗戦の責任を問われ、暗殺されてしまう。

 西欧における一連の戦争のあとに、帝国は小アジアにおいても戦闘を繰り広げた。相手は、マンジケルトの大敗により失った小アジア西部にセルジューク族の一派が建国したルーム・セルジューク朝である。この国と帝国は、十字軍を牽制する必要から、時には友好関係をもつこともあったが、ルーム・セルジューク朝の強大化を阻止するために、マヌエルは戦争に踏み切ったのである。しかし、結果は惨敗であり、領土拡張どころか、防衛するのもやっとという状況に追い込まれる。

 マヌエルは無能な皇帝ではなかったが、西欧における戦争は、西欧諸国との関係悪化を招き、対ビザンチン帝国という目的の下にローマ教皇、イタリア諸都市、神聖ローマ帝国を結束させてしまった。また、相次ぐ戦争はアレクシオス1世、ヨハネス2世の努力で盛り返した国力の衰退を招いた。

 しかし、「世界帝国ローマ」の再現は歴代の皇帝たちの夢であり、この帝国の国是でもあった。

 彼と帝国はもてる力の全てを振り絞って、この夢に挑んだのである。彼は1180年に世を去り、宮廷闘争によって、1185年にはコムネノス朝は断絶する。ある歴史家はコムネノス朝の治世をこう評している。


この時代は、ビザンチン帝国にとって、

西欧勢力と対等に渡り合うだけの実力を備えた最後の時代であった