帝国の中興ー再び強国へー

 レオン3世以降の帝国も、国内では名物の宮廷動乱、聖像崇拝論争、対外的には、バルカン半島におけるブルガリア王国、イタリアにおける西ローマ・フランク王国、小アジアにおけるアッバース朝との抗争に明け暮れ、一時的には反攻に転じることはあったものの、クレタ島、シチリア島などの重要拠点を次々と失っていった。

 10世紀後半になると帝国もようやく力を盛り返し、第二の黄金時代を迎えることになる。963年に即位したニケフォロス2世は、敬虔なキリスト教徒であり、即位以前にも名将として、クレタ島を奪回するなど対イスラム戦において数々の功績を残してきた。

 彼の最大の功績は、969年には、3世紀以上にわたりイスラム勢力に奪われていたキリスト教五本山の一つ、シリアのアンティオキアを奪回したことであろう。人々はこの快挙を「サラセン人の蒼ざめた死」と称えた。ニケフォロス2世は、クーデターにより命を奪われ、クーデターの首謀者ヨハネス1世が皇帝となるが、彼も有能な軍人皇帝であり、帝国の軍事力は強化される。

 976年には、ビザンチン中興の皇帝として名高いバシレイオス2世が即位する(位976~1025)。ビザンチン帝国の皇帝達は多くが文化を愛し、一流の文人でもあったが、バシレイオス2世は質素な生活を送り、ひたすら情熱を帝国の勢力伸張に注いだ。ブルガリア王国はバルカン半島における強国として、度々ビザンティン帝国領に侵略を繰り返してきたが、バシレイオス2世は1014年の戦いで勝利をおさめ、彼は「ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)」と呼ばれることになる。ブルガリア王国はこの敗北をきっかけとして崩壊、バルカン半島全域がビザンティン帝国領となった。

 バルカン半島における征服戦争を成功させた帝国は、その矛先をイタリアに向ける。イタリアは神聖ローマ帝国、ビザンチン帝国、ローマ教皇、その他の小国が抗争を繰り広げていたが、バシレイオス2世は神聖ローマ帝国との抗争に勝利し、イタリア半島の南半分を再び支配に治めるまでになった。彼は結婚もせず、半世紀に渡る長い治世はひたすら戦いに明け暮れる「血塗られた」人生であったが、1025年、彼が病で倒れた時、帝国は地中海世界の強国として、再び地中海世界に君臨していたのである。また彼の治世(989年)、キエフ公国(ロシア)のウラディミル1世の正教への改宗、ビザンツ皇妹アンナとの婚姻が行われ、以後ロシアはビザンティン帝国からの文化的影響の下、東方正教会の一大拠点として発展、15世紀以降はビザンティン帝国の後継者としての地位を確立する。